SHAKESPEARE IN JAPAN

日本におけるシェイクスピア

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逍遥と『テムペスト』

     坪内逍遥は『テンペスト』を「娑翁の代表作の主なもの」であり、彼自身の「娑翁観といふやうなものが添はつているから、はじめて娑翁を読む人などは都合がよかろう」と述べています。逍遥が『テンペスト』を1915年に翻訳した時代は彼の重要な過渡期であっただけでなく、1870年代から始まった1911年の文藝協会が帝国劇場で上演した『ハムレット』に至る日本におけるシェイクスピア受容史の初期時代の終わりに来ていたと言えます。その後の大正から昭和初期の間、シェイクスピアの作品は徐々に小山内薫などの新劇によって普及されるようになります。
     明治の人に一番よく知られていたシェイクスピア劇の『ハムレット』、『ジュリアス・シーザー』や『ベニスの商人』は大体日本人が理解しやすいテーマであります。『ハムレット』の場合は歌舞伎時代物と似ている復讐の話し。『ジュリアス・シーザー』は明治の政界が感嘆した暗殺の畏怖。そして、『ベニスの商人』は元禄歌舞伎も描く金売りの社会。しかし、逍遥の前に『テンペスト』を翻訳した人はいなかったようです。
     逍遥は『テンペスト』に熱狂し称賛しましたけれども、彼の『テンペスト』訳は1931年に弟子の加藤長治演出によって初めて上演されました。今でも逍遥が『テンペスト』より劣性だと考えた『夏の夜の夢』ほど上演されていません。近年の傑出した『テンペスト』上演は1989年に蜷川幸雄の演出で、主演のプロスペロー役が平幹次郎でありました。蜷川のシェイクスピア観は逍遥のシェイクスピア観とは全く違うかもしれませんが、シェイクスピアの最後の大作『テンペスト』が「人間の条件」を見事なことばで作り出すと書いた逍遥論に蜷川は反対していなかったでしょう。蜷川の上演は佐渡島が場面となり、波の音も聞こえるし、プロスペローの役は15世紀に佐渡島へ追放された世阿弥と対比させました。海は逍遥の『テンペスト』論にも中心的な役割をしていますが、世阿弥の共通点を無視しながら、能楽一般や歌舞伎文体の意識は根強くついています。また、逍遥が『テンペスト』を訳した時代は日本が新しい帝国となる進出する時代と重なる時で、蜷川の『テンペスト』上演も経済大国になった昭和元禄の日本の事情を反映しているとも言えるかもしれません。いずれにせよ、『テンペスト』の主題となる「力」とは他のシェイクスピア劇より中心的存在と言えるでしょう。
     『テンペスト』が更に他のシェイクスピア喜劇と相違する点はもう二つありますが、それは『テンペスト』が復讐喜劇であり、ありきたりのハッピーエンドが単独の人物によって工夫されているということです。たった3時間以内、偉い魔術師のプロスペローはミラン公爵の正当な地位を取り戻すことができ、15歳の一人娘に聟を取ってあげることもできます。ルネッサンス期の学者であるプロスペローはありとあらゆる万能知識を活用し、不思議な島の自然環境を支配することができます。エドワード・ダウデンなどのビクトリア朝のシェイクスピア学者を勉強した逍遥はプロスペローの魔術とシェイクスピアの演劇術の間の類似点を比較します。プロスペローが劇の末に彼の術、つまり彼の杖と本を棄てるということですが、『テンペスト』はシェイクスピア自身の「最終作」(swan song) だと考えられています。『テンペスト』を1611年47歳の時に著した直ぐ後、故郷のストラットフォード・アポン・エイボンの立派な家で隠居生活を送ったとよく言われていますが、実際には1616年に亡くなるまで1611年の後にも劇を作成したりロンドンを訪れたりしていたに違いありません。プロスペローが第四幕にファーディナンドに言う名台詞が ‘the great globe itself’(大地球そのもの)を参考にするのはシェイクスピアが1599年以降働いた地球座劇場のことだと思われていますが、実は必ずしもそうではありません。現在のシェイクスピア研究によると、この台詞は必ずしもシェイクスピア自身の思い出を後世に伝えるものではありません。

You do look, my son, in a moved sort,
As if you were dismayed. Be cheerful, sir.
Our revels now are ended. These our actors,
As I foretold you, were all spirits and
Are melted into air, into thin air;
And – like the baseless fabric of this vision –
The cloud-capped towers, the gorgeous palaces,
The solemn temples, the great globe itself,
Yea, all which it inherit, shall dissolve,
And like this insubstantial pageant faded,
Leave not a rack behind. We are such stuff
As dreams are made on, and our little life
Is rounded with a sleep.
   (4.1.146-58)

ああ、婿どの、きつう駭(おどろ)いて氣を揉んでゐなさるやうぢゃが、何も心配には及ばん。餘興(ながさみ)はもう濟んだのぢゃ。あの俳優共(やくしゃども)は、豫て話しておいた通り、みんな精靈ぢゃによって、空氣の中へ、薄い空氣の中へ、溶け込んでしまうた。ああ、此幻影の、礎もない假建物と同じやうに、あの雲に沖る樓臺も、あの輪奐たる宮殿も、あの莊嚴なる堂塔も、此大地球其者も、いや、此地上に有りとあらゆる物一切が、やがては悉く溶解して、今消え去った彼の幻影と同様に、後には泡沫をも殘さぬのぢゃ。吾々は夢と同じ品柄で出來てゐる、吾々の瑣小(ささやか)な一生は、眠りに始まって眠りに終る。
   坪内逍遥訳『颶風(テムペスト)』早稲田大学出版部・富山書房、1915年2月;改訳、中央公論社、1934年、145-6頁

     当然ですが、我々はシェイクスピアの「一生」より逍遥の生活についての方を大分詳しくしっています。『テンペスト』訳の2年程前、つまり1913年に彼は文藝協会の解散で東京の演劇界を引退し、1915年8月天野為之が早稲田学長として選ばれたと同時に逍遥も教授を退職しました。そして、1920年に熱海の別荘に隠居しました。この一連の引退は、逍遥が政治的に不安定な状況から逃れて自身の芸術的な誠実を維持することを希望したのです。又、逍遥が1880年代以降論じた批評的無関心、彼のシェイクスピア論とシェイクスピア翻訳論にも忠実に描いているのであります。逍遥が書いた『テンペスト』訳の付録は彼の一番長いシェイクスピア解説ですが、日本の伝統演劇との貴重な共通点を様々に示しながら、シェイクスピア劇を読む課題はシェイクスピア劇を翻訳する問題と離れられないと判断します。
     シェイクスピア劇37本の内、初期喜劇の『間違いの喜劇』を除いて、アリストテレスが紀元前4世紀に提案した、時と場所、そして動作といった三一致 (classical unities) を従う劇は『テンペスト』だけです。ファーディナンドとミランダの婚礼を祝う仮面劇、超自然の舞台装置、後期シェイクスピアの熟練した文体、そして復讐のテーマを考えれば、『テンペスト』は他のシェイクスピア劇に比べて古典的な調和美を作り出すと言えます。古典主義、いや新古典主義は自発性より理性、釣り合いや礼儀を評価して、17世紀末から18世紀末の間にイギリス文学演劇評論を流行らせます。18世紀半ば、ジョンソン博士はシェイクスピアがマナーを守らない作家だと批判しながら、シェイクスピアの機知や洞察力を大変鑑賞します。逍遥もシェイクスピアと近松の劇作は無理な側面もあるという批判をジョンソン博士の影響を受けたのではないかと思います。
     シェイクスピアにとって、古代ギリシアの女神がでる仮面劇などという古典的なフォーマットはジェームズ一世のお姫様エリザベスが1611年にフレッドリック・パラティン伯との結婚を祝った祝賀会のために上演されたという政治的な目的があったようです。というのは、『テンペスト』は1611年11月1日に結婚式のお客の前で初演されたと記録されています。『テンペスト』の三一致文体はシェイクスピアが劇作経歴中に採用した手順の一つだけではなく、逍遥のシェイクスピア翻訳を評価する基準ともなると思います。アリストテレスの考え方によって、演劇は人性を模写すべきものですから、三一致に従わない劇作品は考えられないのです。ということで、『テンペスト』の筋は始めの嵐と難破の場面から始まって末にプロスペローが魔術を放棄するところまで続く3時間以内に起こる作品です。また、劇全体はプロスペローの庵室の周辺に設定され、プロスペローが他の人物をみんな自分の魔術で制御しますから副題 (sub-plot) はほとんどありません。
     シェイクスピアの有名な演劇効果がとても精密な模倣より弁証法や曖昧さに頼るわけで、彼が原則としての古典演劇の三一致を避けることには、古くからのシェイクスピア学者たちにとってはありがたく思うのでしょう。『テンペスト』の場合、逍遥自身が古典的な一貫性を追求する理由はやはり20世紀始めの近代日本演劇の改良運動ということに関係していますが、その上で逍遥が1880年代以降読んでいたロマン派時代のシェイクスピア評論の影響も無視できないものであります。ロマン派時代の一番大切な評論家はサミュエル・テーラー・コールリッジです。逍遥はシェイクスピアの想像力を描くとコールリッジの名文句の ‘multifarious imagination’(千差万別)などを取り上げます。尚、芝居観客が「不信の自発的な停止」を迎えなければならないと論じるコールリッジと演劇界の人、逍遥は確かに共通するものです。つまり、近代日本演劇のリアリズムを訴える逍遥は近代の日本人に「信じられる」劇作品を作ったり翻訳したりしてあげたかったのです。
     逍遥は「自然主義」とか「ロマン派主義」のように呼ばれて欲しくなかったのはよく知られていますが、中年になると養子の坪内士行にこう言ったのは興味深いです。「自分のは、近松とシェークスピヤとに廃退した一種の新ロマンチシズムというべきものである。」やや曖昧な言い方ですが、逍遥は1890年代非常に想像力に富んだ作家二人に熱中していましたから、自分自身の想像力も大切にしたかもしれません。シェイクスピア全作品の翻訳はかなりの想像力を要す肝心な作業だと考えたらかなりロマンティックな夢ではないかと思えます。しかし同時に、逍遥は『テンペスト』訳の後書き(附録)でロマン派時代のシェイクスピア評論を主観的にし過ぎたと批判します。コールリッジやハズリットはシェイクスピア劇に対する立派な評論をたくさん書きましたが、シェイクスピア劇の実際の舞台上演がどのように見えるべきかとはっきりとわからないのも事実です。
     もちろん、逍遥はある程度彼が読んだ19世紀後半の英米シェイクスピア評論の議論を繰り返しますが、ロマン派評論家がシェイクスピア上演について知らないなどと言ったら、明治時代におけるシェイクスピア翻訳と上演とは中々切り離せない問題でしょう。1911年の文藝協会の『ハムレット』上演を劇評した夏目漱石の劇評、或はそう言えば逍遥の『テンペスト』訳の最初の数ページを読んだら、逍遥が自分で確立した客観性とかバランスの規格を満たすのは大きなチャレンジとなったでしょう。彼はロマン派詩人がシェイクスピア劇で酔ってしまうと述べながら、『テンペスト』は他のシェイクスピア劇に見られない自然界と人間界との調和を作り出すことに、他のシェイクスピア程刺激されにくい劇だと気づきます。それでは、逍遥の『テンペスト』論をもう少し詳しく見ていきましょう。

娑翁が此詩格を使ふのは、時としては散文を役するよりも樂であったらうとも想像される、恰も馬の名人がそれに乗って走るのは、自ら走るよりも樂なやうなものである。娑翁は此伎倆(さえりょう)を以てして、時代と世話―悲劇と喜劇、空想と現實、嚴肅と戯謔(ぎぎゃく)―の書き分けと調和とを自由自在にしてのけたのである。時代と世話の書き分けと調和!之が内外の、少くもロマンス劇の生命であることを忘れてはならぬ。換言すると、此種の劇の面白味の大半は、此時代と世話との不卽不離にあるといってもよい。名作家の作の祕訣もここにあるといって、必ずしも過言でない。時代から世話に碎け又は溶ける微妙の呼吸(いき)、世話から時代へ登る又は困まる其微妙の味ひは、到底名狀することも出來ねば飜譯することも出來ない。只直覺すべきである。而して娑翁の作には、毎に此呼吸、此味ひを生命とする部分が多いのだが、特に此「颶風(テムペスト)」にはそれが多い。彼れの作の妙は、其内容よりも其言葉の諧調にあるといふ評も、主として此理を指すのならば、正鵠(せいこく)を得た説である。かう考へると、彼れの作から―就中、此半ば準楽劇式に作られた「颶風」から―さういふ音楽的な妙處を取去ってしまふといふことは、それを殆ど半殺しにするのであるかも知れぬ。ここに至って、娑翁劇の飜譯難といふことが、今更のやうに思はれるのである。
   逍遥改訳、附録、50-1頁

     逍遥がここで使う「時代」と「世話」は逍遥の演劇伝統に根付いているかなり複雑な専門用語だと思いますが、こちらの意味はシェイクスピアが『テンペスト』という復讐、愛と赦しの単純な物語に好機的な深みや意義を与えることだと私は考えます。言い換えれば、プロスペローは典型的なルネッサンス期の政治家でありながら超自然の力に恵まれている魔術師でもあります。或は、劇場は同時に木材の建物でもあれば、魔法のようなところでもあります。逍遥自身もそう認めていると思いますが、シェイクスピアの大喜劇『テンペスト』を日本語に翻訳しようという試みは20世紀の日本演劇界に新しい標準を設けるものであったかと思います。
     逍遥は『テンペスト』を「半楽劇」と呼びます。又、『テンペスト』はミュージカルであると唱えたことは英米のシェイクスピア評論家の中では珍しい意見かもしれませんが、「楽劇」という言葉を聞いたら、逍遥作の『新曲浦島』や同じ1904年出版の『新楽劇論』のことは思い浮かびます。皆さんはご存じだと思いますが、浦島伝説は貧しい漁夫の浦島太郎がお父さんに怒られ失望をして自殺しようと考えますが、乙姫が海辺に亀の形で現れた時に救われます。そして、乙姫は浦島を海の底で父の龍王殿に導きます。『テンペスト』では、同じようにファーディナンドのお父さんアロンゾー・ナポリ王が溺死したと思い込んでいますが、美しいミランダに救われお父さんプロスペローに導かれます。
     『新曲浦島』の逍遥は確かに「ロマンチシズム」の逍遥です。浦島伝説の劇性、そして空想と現実の対立を実現し、浦島が最後に人生のはかなさを認める作品です。乙姫との三年間の滞在から故郷へ帰る浦島はもう300年が経ち、両親が永遠に生きることができないと分かります。しかし、浦島の自己発見の旅は彼が本来両親との疎外感があった話しから始まります。浦島が海辺で述べる言葉によると、

眞情(まごころ)の通ふをこそ近親(うから)と謂はめ、心千里と隔ち、さらでも寄邊(よるべ)なさに悩める胸に、浪風立たするが親の情けか。あら、つれなの人ごころや。
   坪内逍遥『新曲浦島』(1904) 、逍遥協会編『逍遥選集』第三巻、第一書房、再版、1977年、27頁

     『テンペスト』の話しに戻すと、ファーディナンドのお父さんアロンゾーは数年前にプロスペローを廃しようと共謀しましたから、浦島が両親を考えるのと同様に「精神的に死んでいる(痛んでいる」と考えられます。ファーディナンドが身につけるのはお父さんが怠けたような事実ですが、夢を結ぶため先ず人の為に尽くさなければなりません。つまり、ミランダと結婚するため彼は先ずプロスペローを仕えて丸太を運ばなければなりません。
     『新曲浦島』が構想する長唄や振り事という伝統演劇のスタイルを近代風の演劇リアリズムや西洋音楽と合わせる新楽劇は、彼が『テンペスト』訳の後書きで構想するハイブリッド劇に相当するものです。作品の準備として、逍遥はワーグナーの初期オペラ『タンホイザー』やワーグナーの英文伝記と研究書を探検したそうです。『タンホイザー』と『新曲浦島』と共に性欲と精神的な想いの間で引き裂けられる男の困難を扱っており、ワーグナーのオペラとオペラ論は逍遥の新しい大衆演劇に触発を促したのは明らかです。
     ワーグナーの名前は『テンペスト』訳の後書きに、そして1928年出版の『シェークスピ研究栞』の中のシェイクスピア翻訳についてのエッセイにも数回出て来ますが、ワーグナーのオペラは逍遥が志した演劇一貫性のモデルとなったと思われます。逍遥は次のように書きます。

作者をして六十、七十の齡まで存(ながら)へしめたならば、恐らく假面劇―樂劇―要素の流用は彌々(いよいよ)熾(さか)んになり、巧みにもなり、更に葉美にもなり、娑翁が老後の劇は、竟(つい)には彼のワグネルの樂劇の未成品のやうなものに進化してしまつたかも知れぬ。
   逍遥改訳、附録、45頁

     逍遥がこうした比較をすると、彼は主に音とイメージの調和を意味しています。つまり、シェイクスピアの『テンペスト』でも、ワーグナーのオペラでも、台詞の音色は言葉の意味や比喩的なニュアンス、それから舞台でどのように表現される形なのかと完全に合わせるべきという観念です。もう一つのワーグナー論は、同じ楽節を繰り返し、テーマとキャラクターを主張するライトモチーフ(指導動機)というものです。シェイクスピアの台詞はやはりワーグナーの歌詞より大分複雑なのですが、世界中のシェイクスピア上演の大きな問題は台詞の趣旨やサブテキストの意味を引き出すのです。しかし、この問題は実は逍遥の楽劇論と関係していると私は考えます。シェイクスピア翻訳でも、文藝協会のシェイクスピア上演でも、逍遥は単にシェイクスピアの意味を近代日本人に分かって欲しいのですが、これは例えば最近亡くなったジョン・バートンがイギリスの王立シェイクスピア劇団の俳優たちに教えた台詞回しとそう違う形ではないかもしれません。
     『テンペスト』は悲劇ではなくてハッピーエンドとなる喜劇なので、逍遥は劇をコミック・オペラとして扱います。逍遥翻訳の難点は始終自国語の日本語です。彼は徳川時代の多種多様の文体、例えば「馬琴の只ひとへに流暢にと覘った七五調と老近松の不卽不離の七五調」などを合わせようとしながら、プロスペローの場合は、「元はミランの公爵といふので」

わざと飽くまでも嚴格に、尊大に、貴族的に振舞ふやうに作られてゐる性格であるから、よし現代語を使はせるにしても、强ひて東京語本位にすると新華族めいて來て、何とりがなく、落ちつきが乏しく、野卑にもなる、かといって、下手に關西(かんさい)語を多くすると、何となく浄瑠璃詞(ことば)なぞが聯想(れんそう)されて和臭の勝つ虞れがあり、且つ、どうかすると、他の人物の現代語調と不調和になって、ざらつくといふ嫌ひもある。
   逍遥改訳、附録、54-5頁

これらは逍遥が別のエッセイにも取り上げる「翻訳難」ですが、逍遥がシェイクスピアの様々な声を日本の伝統演劇に聴こえる声と彼の同時代の日本人の声と慎重に区別することを示すのではないかと思います。
     私は12年前に逍遥の『テンペスト』訳を初めて読み、そして最近もう一度読んだ時、怒りと緊張感で溢れる翻訳ではないかと感じました。怒りとはやはりプロスペローの性格に正確だし、翻訳をまだそんなに詳しく分析していませんけれども、逍遥が様々な今昔の文体を混合することとも何か関係があるでしょう。ところで、逍遥の文体と言えば、『テンペスト』訳で「神」(‘god’) と「馬鹿」(‘idiot’) という二語がシェイクスピアの原作よりも使いがちなのは興味深いことだと思います。これらは逍遥の『テンペスト』論の中心となる調和と不調和を意味する言葉ではないかと考えられます。また、逍遥も自身の『テンペスト』訳について「何て馬鹿なんだ」と言ったこともあったでしょう。
     最後に逍遥の『テンペスト』訳より二例を挙げたいと思います。第一は後程朗読されると思いますが、第一幕第二場でアリエルが失望したファーディナンドを慰める歌であります。訳は全て七五調であり、上田敏も褒めた逍遥の抒情性をよく見せているでしょう。

Full fathom five thy father lies,
Of his bones are coral made;
Those are pearls that were his eyes,
Nothing of him that doth fade
But doth suffer a sea-change
Into something rich and strange.
Sea-nymphs hourly ring his knell.
                                             Ding dong.
Hark, now I hear them.
                                             Ding dong bell.
   (1.2.397-405)

五尋(いつひろ)深き水底(みなぞこ)に、
  御父上(おんちちうえ)は臥したまふ。
  御骨(みほね)は珊瑚、眞珠こそ
  その以前(かみ)君が御龍眼(おんまなこ)。
  御體(ぎょたい)の一切朽ちもせて、
寶(たから)と化(か)しぬ海に入りて。
聞かずや海の女神等が
  (此時奥にて)
    ディーン・ドーン!
あれ々、君を弔ふ鐘!
ディーン・ドーン、ベルゝ!
   逍遥改訳、38-9頁

     他方に、逍遥自身の考え方でも、各人物の間の文体的差異を重視し過ぎるのはそんなに面白くないかもしれません。例えば、キャリバンの名台詞 ‘The isle is full of noises’ の調子は、プロスペローが元々キャリバンに上品な言葉を教えましたから、プロスペロー自身の話し方とはそんなに異なっていません。しかし、方言でしみ込んだ逍遥の訳はこの点で原作の文体を無視しているようです。というのは、逍遥のキャリバンは上品な言葉が話せない野蛮人なのでしょう。

CALIBAN Art thou afeard?
STEPHANO No, monster, not I.
CALIBAN
   Be not afeard. The isle is full of noises,
   Sounds and sweet airs that give delight and hurt not.
   Sometimes a thousand twangling instruments
   Will hum about mine ears; and sometimes voices,
   That if I then had waked after long sleep,
   Will make me sleep again; and then in dreaming,
   The clouds, methought, would open and show riches
   Ready to drop upon me, that when I waked
   I cried to dream again.
STEPHANO This will prove a brave kingdom to me, where
   I shall have my music for nothing.
(3.2.135-45)

キャリ おのし怖ってるのかい?
ステフ うんにゃ、俺ァ怖っちゃァゐない。
キャリ 怖らなくても可いよ。此島にゃァ、常任(しょッちゅう)、音がしてゐて、いろんな聲や美(い)い音色がするけれども、どうもしやァしないや、只面白いばかりだ。どうかすると、幾つ
  とも知れない道具の音が、俺の耳の傍で、ツワンツワンと鳴らァ。かと思ふと、長ァく眠て起きた後でさへも、又眠たくなるやうな人の聲が聞えることもあらァ。さうしていつの間にか夢を
  見てゐると、空の雲が漸々(だんだん)に開いて、いろんな寶物が今にも頭の上へ堕落ちかかるやうになるんだ、で、俺、目が覺めると、嗚呼、もう一度夢が見たいッて叫くんだ。
ステフ こいつァ素的な王國だわい、王さまは無代で以て音學が聞かれる。
   逍遥改訳、118-9頁

     逍遥のシェイクスピア翻訳の一番良いところはやはり、彼が「馬に乗って」調子が流暢にでるところです。現在のシェイクスピア翻訳者の松岡和子氏などと比べて、逍遥のスタイルは語尾変化がたくさんあって、文章が長くて遅く聞こえて、人称代名詞もたくさんあるスタイルでしょう。それと比較して、松岡さんの同じキャリバンの台詞の訳を聞いてみましょう。

怖がらなくていい。この島はいろんな音や
いい音色や歌でいっぱいなんだ、美しいだけで害はない。
ときには、何千もの楽器の糸を弾くような調べが
耳元に響く。時には歌声が聞こえてきて、
ぐっすり眠った後でも
また眠くなったりする。そのまま夢を見ると、
雲の切れ間から宝物がのぞいて
俺のうえに降ってきたそうになる、そこで目が覚めたときは
夢の続きが見たくて泣いたもんだ。
   松岡和子訳、『テンペスト』筑摩書房、2000年、105-6頁

松岡さんの改行は当然逍遥訳にはほとんどない勢いを与えてくれます。逍遥の訳は寧ろ文章の重さに頼ると言ってもいいです。
     但し私が主張したいのは、逍遥の『テンペスト』訳は海の匂いがあるということです。シェイクスピアの『テンペスト』では、海は泰平とか不調和の両方を象徴し、支配的なイメージであり、プロスペローが最後に本と杖を投げ棄てるところです。尚、逍遥がシェイクスピアの想像力を海と比べたことはよく知られており、1890年代森鴎外との没理想論争での「底知らずの湖」のイメージとも関連しているかもしれません。没理想論争のような歴史背景を考えたら、プロスペロー自身もシェイクスピアやゲーテと同様の才能が測れない意外な人間だと考えてもいいです。

先日も、熱海で申した通り、今回のご出版は正に一大冒険でおありでした。財界は不振出版界は不況、之を航海に譬(たと)えるなら、風が荒く、浪が高く、航海には至って不妙な時なのです。たとえお積み込みになる商品其物は絶対無比の世界的名産―シェイクスピア―であるにしても、それを載せてゆく船は和船だ。旧式な、粗造な三十石船、四十巻船、中にも『ハムレット』丸や『ロミオ』丸は前世紀式の帆掛け船です。それで財界不振の荒浪を、出版界不況の大あらしを乗り切ろうというのは、一大冒険であるに相違ないのです。島中君は、さしづめ、蜜柑(みかん)船の紀文か、銭屋五兵衛(ぜにやごへえ)か、或いはもっとヘロイックな山田長政ともいうべき、とにかく、偉い度胸の冒険者であったといっていい。が、船大工の私は内々、大心配、私は露伴君の『五重塔』の十兵衛のような名人かたぎの男じゃないが、それでも船を拵えた当人であって見れば、責任がある。航海中に中央公論社がペリクリーズのように難航に逢やしないか、『テンペスト』のアロンゾー其外のような目に遭わなけりゃいいがと、実際、いろいろ取り越し苦労をしていたのでしたが、幸いに何事もなく、目ざす港へご入船―予期以上でないまでも、とにかく損のいかない程度のご成功とは、実に似ておめでたい。そうして其お祝いの席上へ二度目のお招きを受けた事は、私としては安心という景物附きの有りがたさであります。
   河竹繁俊・柳田泉『坪内逍遥』第一書房、初版1939年、740頁

逍遥の『テンペスト』訳を巡る海も様々な物語を持ち合わせています。
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