NOT WHAT SHAKESPEARE WROTE


シェイクスピアが書いたものではないもの

 

翻訳を読むための戦略


 シェイクスピア批評と翻訳研究は「シェイクスピアが何を書いたか」から、彼が何を書かなかったか、言い換えれば、作品が翻訳において何になるのかという点に焦点を移しつつある。シェイクスピアの翻訳者たちは、少なくとも1970年代以降、「シェイクスピアを読むための代替的で転覆的な戦略が主流となった」(Homem 2004, 6)ときから、この問題に関心があった。転覆的戦略として、翻訳は読者や観客にとって、シェイクスピアの何が重要なのかを発見し、思い起こさせることさえも可能にしている。

 翻訳は原作の何かを失うものだとしばしば考えられている。シェイクスピアの詩的で劇的な特質の恣意的な基準に照らして翻訳を評価するよりも、むしろ戯曲を詩的で力強い衝動の異質な軌跡を構成するものとして見る方が有益かもしれない。そうした衝動は戯曲に由来するが、翻訳者たちによって、それぞれ独自の仕方で、それぞれ独自の時代や場所において把握されている(Bassnett 1998; Déprats 2012)。この議論の結果は、翻訳者もまた、シェイクスピアの構造の中に、彼らの母語の演劇や文学に見られる完成や一貫性への希求を認識するということであり、その希求は全ての文化において作家たちが主題、筋立てや登場人物などを展開する反復と変奏の比喩を通して感じられるものである。本章では、シェイクスピアの翻訳者が何を行なっているかを理解するための3つの基本的要素として「一貫性」「細部」「文脈」を挙げる。

 「一貫性」という用語は、シェイクスピア翻訳を、多かれ少なかれ統合された解釈行為として呼ぶもので、それは翻訳者にとって原文の最も重要な特徴を前面に出すという点で評論によく似ている。

 「細部」は、翻訳者が語彙や文体の選択を通じて前面に出し、彼らの統一的な解釈へと持ち込みたい原文の特徴――単語、語句、台詞、演説、文体的特徴の例など――を意味する。

 「文脈」は、翻訳者の解釈を形作るときに役立つ原文の歴史的文脈の側面と、目標言語の現代的文脈の両方を指す。したがって、本論文の事例研究の題材である『ハムレット』の死という主題の場合、翻訳者はまず、この劇の死の主題的意義についての基本的な認識の立場から出発し、作品が書かれたエリザベス朝後期イングランドにおける死生観と、自国の文化における死生観について知っていることを比較するだろう。次に、『ハムレット』における死への言及を翻訳するための戦略(この場合、主として単語ごとに)を発展させ、最後にそれら一連の語彙や文体の選択を何らかの全体的解釈へ取り入れるだろう。

 

理論的アプローチ:等価性の無益さ

 

 シェイクスピア翻訳の歴史は、ヨーロッパ諸国では17世紀および18世紀に、一部の非インドヨーロッパ語族では19世紀から20世紀初頭にまで遡る。一方、近年のグローブ・トゥ・グローブ・フェスティバルでは、ロンドン2012文化オリンピアードの一環として、マオリ語やジュバ・アラビア語のようにシェイクスピアの英語から遠く離れた言語による上演も含め37作品が37の異なる言語で上演された。これらの作品が受容されてきた言語と文化の豊富さは、全体として見ると、シェイクスピア自身の文脈よりもさらに複雑であるが、一貫性、細部、文脈の要因に何らかの関係があるかもしれない3つの認識できる基準がある。1つは、支配的な美学体系に共感する場合であれ、それに反抗する場合であれ、翻訳が国民文学史の中に組み込まれる傾向である。その重要な例は18世紀フランスであり、そこではシェイクスピアは時代的、地理的に十分近く、新古典主義の様式を逸脱していると見なされたことによって、フランス文化的アイデンティティの指標となった。しかし、次の世紀にわたり、ドイツ・ロマン主義の台頭とともにこの役割は逆転し、彼は解放的な影響力となった(Delabastita 2011: 268)。

 シェイクスピアはどの文化においても統一的な力となる可能性を持ち、そして翻訳者たちはその一貫性という神話を維持するうえで明らかに大きな関係がある。一貫性への希求は、「あらゆる自由で高度な対話は2つの方法で認識されることを望む」というシュライアマハーのロマン主義的な翻訳観に暗に示されている。すなわち「一方では、それが構成されている要素の言語の精神から生まれたもの」、そして、他方では、「話者の感情から、話者自身の行為として、話者の本質によってのみ生み出され、説明されうるものである」(Schulte 1992: 38)。シェイクスピア翻訳者が、個人的な目標として一貫性を求めることを否定する者はほとんどいないだろう。問題は、少なくとも過去50年理論家たちが述べてきたように、言語や文化の体系的な違いに応える翻訳――この場合はシェイクスピア翻訳――の規範的な説明を与えることにある。

 ジェイムズ・S・ホームズは、原文と訳文の間に真の等価性はありえないと主張し、模倣の翻訳は稀であり、英語とドイツ語のような近縁の言語に限定されると示唆した。文学翻訳者は、原文に由来する内容に基づき、有機的に、または類推によって訳文を展開する傾向がある(Holmes 1988: 26–7)。典型的な例を挙げると、すべての言語は生来リズムの能力を備えているが、シェイクスピア翻訳におけるリズムの使用は、シェイクスピア自身がリズムに富む作家であるという意味でのみ彼の詩学に似ている。それ以外の点では、リズムは目標言語の意味を表現するための1つの技法にすぎない。均等性が存在するところには、忠実性の可能性も存在するが、翻訳が原文に絶対的に忠実であることは不可能であるということは長く当たり前であった。翻訳研究はさらに踏み込み、翻訳を評価するための絶対的かつ中立的な忠実性の基準は存在しないと主張している(Pym 2014, 24)。

 翻訳研究は一般的に原文と訳文の隔たりをまたいで規範を適用することを避ける一方で、ギデオン・トゥーリの記述モデルは、少なくとも等価性を翻訳の明白な特徴として認めている。ただし等価性は、原文文化と目標文化において作用し、それは歴史的に変化する規範という観点からのみ記述されうるものである(Toury 2012: 85)。したがって、もし『マクベス』の翻訳が想像的で挑戦的であると考えられる場合、分析の要点は、翻訳者が作品内の想像的な精神に何らかの形で忠実であったということではなく、翻訳者が――シェイクスピアと同様に――いわゆる「想像的な翻訳」が作られることを可能にする修辞的規範を通じて作業するという点にある。シェイクスピアの学者は、「想像的」のような語がシェイクスピアの文脈においてしばしば違う意味を持っていたことをよく理解しており、そのため、シェイクスピア翻訳者の仕事は時に境界的であると特徴づけられる。つまり、過去と現在の間を行き来し、1つの視点に長く留まる時間がしばしばほとんどない営みである。

 一貫性の要因に戻ると、シェイクスピア翻訳者は、例えば(先に述べたように)修辞的技法の反復的使用や、原文と一致する場合もしない場合もあるかもしれない構造的・意味的な繋がりを作品全体にわたって作ることで、統一的な翻訳を生み出そうと努力するかもしれない。トゥーリの理論を適用すれば、このような戦略は次に翻訳者の美学体系の中の規範と関係づけられうる。しかし、受容文化の中で一貫性がシェイクスピア翻訳の潜在的な力の尺度であるなら、細部に払われる注意は、熟練した翻訳者でさえどのようにシェイクスピアを読むかという、より現実的な指標となるかもしれない。グローブ・トゥ・グローブ・フェスティバルに対する1つの学術的な返答は、私の意味することを説明している。


あなたが並外れた多言語話者でない限り、37の言語で37の作品を観ることは、意味を追いたいと思うものの、ほとんどの時間、個々の単語は理解できないことを意味する。それは字幕なしで外国語の映画を観るようなもの、あるいは難解な中国語の方言でオペラを聴くようなものだ。もしくは、言語習得の初期段階にいる子どものように、身振りや抑揚、そして文脈や確率を的確に把握することで意味を直感的に捉えることに似ている。(Reiss 2013: 220)


この批評家は外国語による上演について書いているが、たとえ外国語であっても、作品は独自の文法である「規則、仕掛け、慣習を一貫性と品格を持って」展開する潜在力をなお持つと付け加える(221)。要するに、目標言語の非母語話者であるにもかかわらずシェイクスピアに親しんでいる人にとっても、あるいは母語話者であっても文化的にシェイクスピアにあまり馴染みのない人にとっても、シェイクスピアの理解はその訳文の細部から始まる可能性が高い。翻訳者は、こうしたしばしば非常に微妙な細部を彼らの翻訳の物語構造の中に配置する機会を持つ。それは原作の比較的変わらない特徴(筋立て、登場人物、主題、モチーフ)と、原文と訳文の不可避な差異の両方を示すものである。翻訳者が彼ら個人の優先順位と解釈行為に基づいてシェイクスピアの物語を再構築する可能性は、シェイクスピア翻訳研究における第2の基準を構成する。

 ローレンス・ヴェヌティは、本質的な異質性を犠牲にして、外国文学作品を自然化・自国化する流暢で、「透明な」翻訳に対する批判の中で、この教育的可能性をよく知られる形で展開した(Venuti 1995)。したがって、流暢なシェイクスピア翻訳――そしてこれはいわゆる学術的翻訳の危険であるように思われる――は、実際は受容文化の中に効果的に取り込まれることなしに、一貫性の幻想を生み出してしまうかもしれない。なぜなら、それは読者にシェイクスピアについて何を好み(あるいは嫌うのか)を見つけ出すよう動機づけることに決して成功していないからだ。ヴォルテール時代のフランスやシェイクスピアの母国という明白な例外とは対象的に、もはやどの国民文化も自らが何であるかを示すためにシェイクスピアを必要としていないと言っても過言ではない。シェイクスピアの資本は国民的なものから世界的なものへと移行し、そこで彼は地域の劇場や教育機関などにおいて、ニッチな存在として現代およびポストモダン文化の多様な声と競い合う。シェイクスピアは今なお多くの人々にとって極めて「意義のある」作家であるが、ヴェヌティの議論に従えば、彼がニッチな存在として生き延びることは、原作の独自性や「異質性」のあらゆる点を読者に知らせる翻訳によって高められる。異化的な翻訳はぎこちなく「洗練されていない」ように聞こえるかもしれないが、そうした翻訳を支える受容の一貫性を否定するものではない。

 日本では、シェイクスピアは最初に19世紀後半に翻訳され、その翻訳は当初、文化改革の必要性に触発されていた。今日では翻訳者は主に演劇的な需要や個人的な志向によって動機づけられているが、文化改革の結果として生じるかもしれないという、言語変化もまた、シェイクスピアを翻訳することのやむを得ない理由となっている。これに対して、読者はヴィクトル・ユーゴーのいわゆる19世紀の古風なフランス語訳や、20世紀初頭の坪内逍遥の日本語訳の古文体を好む自由を持っている。しかしこうした主張は、受容文化における古文体の機能と、シェイクスピアの歴史的な視点の感覚を比較するという一定の条件が求められる。シェイクスピアの言語が現代の耳には古風に聞こえるからといって、それがいつも古風な文体で訳されるべきであるとは限らない。シェイクスピアの翻訳者たちは、自らが十分に自覚していない形で、その社会文化的文脈によって原文に応答する方法を規制されている。この文脈を理解する必要性は、シェイクスピア翻訳研究における第3の基準である。

 等価性を追求することの無益さを踏まえると、反対に差異を受け入れることが、研究分野としてのシェイクスピア翻訳の普遍的な魅力を説明する。それをあまりに理論的で専門的だと感じる人々は、翻訳とは単なるコミュニケーション行為にほかならないとするエルンスト・アウグスト・グットの反理論的主張(Gutt 2000)に慰められるかもしれない。他のコミュニケーション行為と同様に、翻訳は結果を生み出すことはほとんど確実だからである。シェイクスピア翻訳の実践と研究は、シェイクスピアと受容文化の双方について、多様な情報と洞察をもたらす。その問題は、結果の欠如というよりも、むしろその過剰さにあるのかもしれない。この点に関して、ルース・モースは翻訳が読者の読みを遅らせることで、「簡単に見落とされがちでありながら、無意識に想定されている前提に寄与するような細部の種類」に読者を気づかせる役割を論じている(Morse 2006: 80)。例えば、シェイクスピアの宗教的背景に関連して、また(演劇的文脈を念頭に置いて)モースは、指導的な読解に適した戦略として異化を推奨している(88–9)。

 モースの評価はまた、ヴェヌティが翻訳者の正当な「可視性」として重んじるものの一例でもある。そしてシェイクスピアの背景に向けられた注意が、忠実性という厄介な問題を持ち出す危険を起こす恐れがあるとしても、それは現代の学術研究という観点から来るものとして正当化される。シェイクスピアの翻訳者たちは、読者に何を見るべきかだけでなく、どのように見るべきかも示しており、言い換えれば、意味内容に加えて、原文を翻訳する過程で翻訳者自身が経験した認知的な読解過程を伝える。「冗談を共有すること」――言葉遊びやほのめかし、隠喩や文化的な引喩――はシェイクスピア翻訳の楽しみの一部である。しかしおそらく翻訳者が読者に与えうる最も重要な「教訓」は、シェイクスピアの翻訳不可能性に対する洗練された感覚である。すなわち、誤解や違いが、人間が常に互いを完全に理解しなければならないという運命から救うがゆえに持つ喜劇的価値である。この理解はシェイクスピア自身の外国語の使用の中に刻み込まれており、英語を第二言語かつ世界の言語として用いる今日の非英語圏の観客の間に響きわたっている。

 

現代の事例研究:日本語の『ハムレット』における死の翻訳

 

規範的文脈

 

 翻訳者たちがシェイクスピアに夢中になるもう一つの理由は、彼が翻訳者に通常であれば自らの言語で言えなかったかもしれないことを語らせてくれる点にある(Joubin 2022: 16–17)。多くの翻訳者は『ハムレット』から取り組み始めるが、それはおそらく翻訳するうえで最も困難で刺激的な劇であり、そして死についての劇として、多くの翻訳者がとりわけ惹かれるかもしれないのは、言語や劇的な構造を通じて、どのように死の主題がその創造性の条件になるのか、すなわち死それ自体のようなものとなる点である。『ハムレット』において死が必ずしも最良の台詞を担うわけではないが、出来事の大半は死によるものであり、したがって死は、まさに翻訳者の読解が容易にまとまり、また翻訳者が主張したいと望むかもしれない細部の焦点ともなるモチーフの種類である。この劇の「不自然な」死の連鎖は、パンデミックや国際テロリズムという私たちの状況を含め、いかなる文脈においても反響する。この作品の天才性は、社会的慣習の中でしばしば無害化され周縁化される死への意識を呼び起こす点にあるかもしれない。

 『ハムレット』は、death や die という語がその文法的形式において69例見られ、これは他の戯曲や詩作品の平均の2倍以上にあたる。そのうち24回はハムレット自身の発話であり、クローディアスも15回とそれに近い。かなり多くの印象的な用例があるが(例えばオフィーリアの「あの人は死に去ってしまった、王妃様」)、もしそうでなかったとしても、それらはなお、翻訳が現れうる一つの型を示唆しており、次に挙げる最後の二幕からの一連の箇所である。


Rosencrantz: What have you done, my lord, with the dead body? (4.2.3-4)

Claudius: The present death of Hamlet. (4.3.63)

Hamlet: To all that fortune, death and danger dare (4.4.51)

 The imminent death of twenty thousand men (59)

Ophelia: He is dead and gone, lady, / He is dead and gone. (4.5.29-30)

Claudius: All from her father’s death (76)

 For good Polonius’ death (83)

 With pestilent speeches of his father’s death (91)

 Gives me superfluous death (96)

  [Where is my father?] Dead. (127)

 I am guiltless of your father’s death (148)

Ophelia: No, no, he is dead, / Go to thy deathbed. (184-185)

Laertes: His means of death (205)

Claudius: And for his death no wind of blame shall breathe (4.7.64)

Laertes: can save the thing from death (143)

 that if I gall him slightly / It may be death. (145-146)

Gertrude: dead men’s fingers (169)

 To muddy death. (189)

Gravedigger: he that is not guilty of his own death shortens not his own life. (5.1.19-20)

Hamlet: ’Tis for the dead, not for the quick. (118-119)

Gravedigger: but rest her soul she’s dead (127-128)

 if ’a be not rotten before ’a die (155)

 your whoreson dead body (162)

Priest: Her death was doubtful (216)

Hamlet: He should those bearers put to sudden death (5.2.46)

Hamlet: I am dead, Horatio. (317)

 this fell sergeant Death (320)

 Horatio, I am dead. (322)

 O, I die, Horatio. (336)

 he has my dying voice. (340)

Fortinbras: O proud Death (348)

Ambassador: Rosencrantz and Guildenstern are dead. (355)

Horatio: He never gave commandment for their death. (358)

 Of deaths put on by cunning (367)


日本文化において、『ハムレット』の復讐という主題――そこでは死が原因であり結果でもある――は、おそらく歌舞伎の演目の中で最も有名な演劇である『仮名手本忠臣蔵』(1748年)に相当する。この作品では、家臣たちが主君の屈辱と強制された自害に対する復讐を企て実行し、最後には切腹によって自ら命を絶つまで、全編上演に要する8時間にわたって大きな緊張感が生み出される。死は日本演劇にとって決して異質なものではなく、また家臣たちの行為の道徳的基盤がハムレットとはかなり異なるとはいえ、これもまた死が「文化的創造性の究極的条件」(Bauman 1992: 4)となる作品である。

 現代日本は、超自然的な信仰の影響がほとんどないポスト宗教社会として特徴づけられ、生き残るのは魂というよりもむしろ記憶であり、例えば家に設けられた仏壇で亡くなった家族に祈るという今なお一般的な慣習がその一例である。死は――他の場所と同様に――タブーであり、「永眠する」(永遠の安息に入る)や「他界する」(他の世に旅立つ)のような表現によって婉曲化される。もし『ハムレット』における死が、このような社会に少しでも意味を持つなら、それは美的な目的、言い換えれば創造性の条件としてであるように思われるが、死の現実が日常の日本社会に侵入する実例も数多く存在する。とりわけ1995年の阪神・淡路大震災と2011年の津波という2つの自然災害だけでなく、日本の高い自殺率である。過去20年間で50万人をはるかに超える日本人が自ら命を絶っており、電車への飛び込み自殺は、死の現実と、そのような絶望的な手段に至らせた様々な「生における死」がとりわけ衝撃的に融合したものと見なされている。

 この背景は、『ハムレット』がどのように日本の規範を反映し、さらに挑戦しうるかを理解するために説得力のある文脈を提供するが、翻訳者たちが行う選択を必ずしも説明するものではない。そしてこれらの選択を理解するためには、翻訳の全体的な文体的特徴を考慮する必要がある。日本のシェイクスピア研究者や翻訳者(その多くは学者でもある)が自らの仕事について何を語ってきたのか、また演劇界や観客の反応を検討し、それらの見解を文化的パラダイムの変化と関係づける必要がある。幸いにも、検討に用いるための資料には事欠かない(例:上野1995)。近年における2人の主要な翻訳者は、1970年代から80年代の小田島雄志と、過去20年間の松岡和子である。小田島の翻訳は話しやすさと口語的な文体によって俳優や観客の間で人気がある。そして、松岡の翻訳も同様に話しやすく、性別・年齢・社会階層による従来の言語的差異を最小化していると言われている(喜志2012: 81)。小田島がシェイクスピアを翻訳したのは、日本の戦後経済成長期の最盛期であり、当時の日本の製造業のように、「機能する」魅力的な翻訳を生み出した。松岡の演劇は、先行世代によって蓄積された文化資本の恩恵を受けているが、経済的に不確実で期待が見直される時代にあっては、観客を維持しつつ何か新しいことを語ることの両方において必然的な緊張状態にある。小田島は1972年に『ハムレット』を翻訳したが、それは作家三島由紀夫が戦後社会の精神的退廃に抗議した衝撃的な切腹のわずか2年後のことであった。一部の評論家にとって、三島の自殺は――否定的な意味において――現代における武士道的価値観のパロディ、さらには「翻訳」のように見えた。1996年に、松岡の翻訳が登場したときは、封建的な過去との結びつきはいっそう不確かになっており、自殺は(規範というよりも)社会問題としてますます認識されるようになっていた。そして、自殺がもはや正当化されないのであれば、それはまた(悲劇的ではあるが)個人の選択の問題として見なされる可能性が高い。多くの日本人が依然として超自然的な宗教的信念を持っているのと同様に、自殺の個別の事例もまた、当事者や一部の論者によって、失敗の恥に対する名誉ある償いとして合理化され続けるかもしれない。松岡のシェイクスピア翻訳は、こうした個人の選択の範囲の中に位置づけられると私は考える。

 

解釈的細部と一貫性の表れ

 

 私は、『ハムレット』における death と die の69の用例を小田島と松岡がどのように翻訳しているかに関心がある。これは、翻訳者がどのように一貫性を達成し、翻訳の細部を通して自らのアイデンティティを主張するかという事例研究である。一見すると、この2つの訳はほとんど変わらないように見える。例えば、‘die’に「死ぬ」、‘death’に「死」という標準的な語を好んで用いており、小田島は43回、松岡は47回この選択をしている。この語彙選択(「死/死ぬ」)を通して、両訳は作品の筋立ての基本的事実としての死の認識を中心に一貫しているが、この選択の様々な例外は、2人の翻訳者の個別的な解釈の表れとして読むことができる。

 クローディアスが最初に彼の兄の死に言及する場面(Though yet of Hamlet our dear brother’s death / The memory be green「それでもなお、私たちの愛しい兄ハムレットの死/その記憶は新しい」1.2.1-2)では、両者とも1989年の昭和天皇の逝去にも用いられた、極めて敬意の高い「崩御」を使用している(Odashima 1983: 20; Matsuoka 1996: 22)。しかし、この形式的な表現を用いた後は、「死」「死ぬ」という語に統一している。次の用例(Or thinking by our late dear brother’s death / Our state to be disjoint and out of frame「あるいは、私たちの愛しい兄の死によって/我らの国が分裂し、統制を失ったと考え」1.2.19-20)では、小田島は「崩れる」という語を使用している。これは「崩御」の「崩」(ほう)の訓読みであり、「兄の死によってわが国の支柱が崩れ」と訳している(21)。松岡訳のクローディアスは、亡き王の身体と国家という身体との結びつきをそこまで明示的に示さないが、ハムレットが父の亡霊を見た後の台詞 The time is out of joint (1.5.186)「この世は狂っている」との修辞的な繋がりを維持する。すなわち前者では、「わが国の関節が外れ」(23)、後者では、「この世の関節がはずれてしまった」(68)と訳している。どちらの場合も、松岡は脚注でその繋がりに言及している。この選択は、単なる解釈行為というよりも、上演と読解の時間的構造をまたいで意味づけられるという点でより演劇的である。

 他の例を見ると、もう1つの一般的な連語である、「亡くなる」がほとんど使用されていないのは驚くことである。小田島は3回、松岡は4回しか用いていない。「死ぬ」はより直接的で、感情的な中立性や死の単なる事実を示す一方で、「亡くなる」(文字通り、「無くなる」)は思いやりや共感を含む。バーナードが亡霊について In the same figure like the king that’s dead「死んだ王と同じ姿」1.1.40)で現れると語るとき、彼は知られている出来事とかつての主君に言及している。そのため小田島(11)と松岡(12)は王を過去形の「亡くなった」と訳しているが、死という劇的モチーフに支配された戯曲であり、また亡霊の場合は、死者が無以上のものになる作品であることを考えると、この用法は異例に思われる。シェイクスピアの無韻詩では、death および die は強勢のある語であり、このような韻律の強勢がこの劇の根底的な緊張に寄与する。その規則を証明する例外として、ハムレットがオフィーリアに母の陽気な態度について、and my father died within’s two hours!(「そして父が死んでから2時間のうちに!」3.2.120)と不満を述べるとき、彼は散文で話す。これは、宮廷が役者たちの台本のより高い形式性に備える中でのくだけた瞬間であり、そして案の定、小田島も松岡も‘died’を「亡くなって」と訳している。小田島は頭韻においてやや軽蔑的であり(父上が亡くなって二時間とたたぬというのにあれだ)(124)、そして松岡はやや遊び心がある(父上が亡くなってまだ二時間なのに)(136)。これはハムレットが自分の言っていることを承知しているからである。小田島は「あれ」、‘that’という語に強調を置いているが、この口語的な日本語は性的関係を指しうる。つまり彼の母は honeying and making love / Over the nasty sty「甘い言葉を使い、愛し合っている/その不潔な豚小屋の上で」3.4.91–92)。

 もう1つの極端な例として、ハムレットが剣を壁掛けに突き刺し、まだ完全には起こっていない死を言葉にする場面がある。How now! A rat! Dead for a ducat, dead!「なんだ!鼠か!ダカット金貨一枚で死ね、死ね!」3.4.22)。この緊迫した劇的な文脈では、ダカットは翻訳不可能であるが、小田島は試みている――「おお、ネズミか? 死ね、どうだ!」(148)。「どうだ」(How now!)の主な機能は、ハムレットが剣を突き入れるための頭韻を利用した合図であり、そして ducat から歯茎音の‘d’を借用することで、翻訳不可能な「ダカット」が、ハムレットにとってのポローニアスと同じように、観客にとっても見えないことを滑稽に示唆しているのかもしれない。どちらも翻訳の犠牲者であり、ハムレットの場合は父の復讐の霊の犠牲者でもある。松岡は「死ぬ」という語の力を十分に出すだけで足りる――「何だ? 鼠か! 死ね、死ね。」(164)。より詩的な例を挙げるなら、オフィーリアの歌 He is dead and gone, lady, / He is dead and gone「あの人は死に去ってしまった、王妃様/死に去ってしまった」4.5.29-30)において、「死ぬ」が彼らの翻訳から痛切に欠落している。小田島はより感傷的で、「彼はあの世に去りぬ/あの人ははかなく去りぬ」と訳す。松岡はより悲劇的であるように見え、「あの人はもういない/あの人はもういない」とする。しかし、どちらの翻訳も演劇的な解釈に開かれており、同様に両訳者とも、ハムレットの最後の(とは言え完全に最後ではない)叫び I am dead, Horatio「私は死ぬ、ホレイショーよ」5.2.322)における潜在的なユーモアを捉えている。「もうだめだ、ホレーシオ」(小田島)、「ホレイショー、もう駄目だ」(松岡)は、「もう手遅れだ」という意味である。ここでのわずかな違いは、小田島がホレーシオとの関係性を強調し、「だめ」(文字通り「良くない」)を表音的なひらがなの文字体系で、友人間の余談のように書いているのに対し、松岡は「ホレイショー」を前に置くことで(それ自体が、日本語におけるホレイショーという名前の、より直訳的で異国風に聞こえる表現)、漢字で書かれた「駄目」に重点を置いている。漢字は中国語に由来する文字で、名詞や形容詞、動詞の語幹を書くために使用される。これらのいくつかの例はまたホームズの有機的翻訳モデルを示している。すなわち、「もうだめだ」という語句は文字通り「私は死ぬ」という意味ではなく、ハムレットが救われるにはもう手遅れであるという劇的な意味を引き出しているのである。

 翻訳が全体としてどの程度有機的に一貫し、独自の解釈や解釈様式になるかは、修辞的分析の様々な種類や、同一テクストの異なる翻訳を比較することによって検討される。『ハムレット』の2つの翻訳を見ると、2つの相違点が際立っている。1つは松岡が小田島よりも多くの漢字を用いていることであり、もう1つは松岡が一般的に先行する訳者よりも複雑な表現様式を目指していることである。先に検討した一覧では、松岡は266、小田島は234の漢字を用いている。特に目立つのは、フォーティンブラスの O proud death「ああ、高慢な死よ」(5.2.348)を、松岡は4つの漢字(傲慢な死神よ)を用いて訳しているのに対し、小田島は1つのみ(おごれる死よ)としている点である。この違いは微妙であり、個人的なものですらあるが、現代の書き手は、意味が文脈から明らかな場合は余分な漢字を避ける傾向がある。ただしこうした漢字の使用は、一般的に「傲慢」のような漢字の熟語では、「おごれる」のような和語の動詞ほど受け入れられない。松岡の選択は擬人化の慣習性を強調しているように思われる。というのも、この言葉を発するフォーティンブラスは、デンマーク王室にとって「死」を象徴すると同時に、人間でもあるからである一方で、小田島は日本語のことわざ「おごれる者は久しからず」を参照している可能性がある。小田島の非常に読みやすく話しやすい版は、1970年代から1980年代の東京演劇の直接的な文脈――出口典雄や蜷川幸雄のような演出家(いずれも小田島の翻訳に依拠していた)が、より広く若い観客にシェイクスピアを届けようとしていた――により適しているように思われる。そして松岡のより修辞的に複雑な版は、1990年代から21世紀初頭の日本における洗練された都市文化により適しているように見える。

 松岡がより多くの漢字を用いる理由(これは翻訳全体を網羅的に分析することを通して立証できることである)は、単純に彼女がより多くの語を用いているからかもしれない。しかし、文体の高度な複雑さは別の特徴を示している可能性もあり、例えば、彼女の登場人物たちは自分の意味することをより説明したいのかもしれない。翻訳が論理的な結論を持つ一貫した主張である限り、その翻訳が自らについて何を語っているように見えるかという観点で結末の場面を見ることは価値がある。ハムレット自身の結論は、フォーティンブラスが has my dying voice(私の死にゆく声だ)(5.2.340)というものである。これを小田島は「それが死を迎えたハムレットの心」と翻訳し、松岡は「それが死に臨んだ俺の意志だ」としている。要するに、小田島のハムレットは最後まで彼自身を劇的に表現するように見えるのに対し、松岡のハムレットはより曖昧さなく自らの視点を強く主張するように見える。そして「死」と「意志」の語呂合わせにおいて、彼が自らの死を「意志した」ことさえ示唆している。数行後にホレイショーが deaths put on by cunning(悪知恵によって仕掛けられた死)(5.2.367)と語る場面で、小田島版は再びより開かれたものに見える――「仕組んだ死の罠」――これは、「罠」を動物を捕らえるための仕掛けを意味し(ホレイショーの意味をより広く理解できない自然の世界へと結びつける)、また日本語の語順においてこの句は人間の陰謀だけでなく、死そのもの(誇り高き死)を指すと考えられるためである。松岡の言葉遊び――「仕組んだ策略」――は、悪の行使をより曖昧さなく言語的な戦略、言い換えれば修辞と結びつけている。

 本章における「厚い」分析は、言語的接点と同様に文化的文脈も含んでおり、あらゆる言語に適用されうる、シェイクスピア翻訳を読むための記述的戦略を提供することを意味している。シェイクスピアのグローバル化の進行や、外国語でシェイクスピアを読むことに生じる明らかな困難を考慮すると、文体的特徴について、例えば(選択的解釈や事例証拠に頼るのではなく)シェイクスピア翻訳コーパスを見ることで、より詳細な分析が必要である。また、翻訳は制作過程および観客の反応という観点からどのように一貫性を保つのかについて、より徹底的な調査も必要である。翻訳は原文とちょうど同じように稽古の中で削除され編集されるものであり、上で論じられた細部の種類は上演において全く気づかれない。テクストが紙面上や舞台上で解釈に対して開かれていることは、翻訳者の仕事を複雑にする一方で、代替的な声を導入することにもなり、翻訳者が目標文化においてシェイクスピアの「唯一の代表者」となることの重荷から救うことにもなる。

 

参考文献

 

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